言葉の限界

言葉には限界がある。

お腹すいてるときに

「お腹すいてつらいね」って言われても

ひとつも腹の足しにならない。

共感、肯定、優しさ、励ましの言葉も

物理的な問題は解決できない。

むなしいだけだ。

 

「死にたい」という感情を持つ人。

一見、精神的な問題に見える。

俺はこれは

物理的な問題を抱えきれなくなった人が

精神的な問題にすりかえている

のではないかと考えている。

部屋の掃除ができない人が、物を押入れにぶち込むみたいな感じだ。

本来の置き場所はそこじゃない。

でももう、掃除する体力も気力も無い。

すべてが、めんどうくさい。

問題がたくさんある。解決できるのは自分しかいない。

逃げたい。消えたい。

と考えてる間に、もともとの問題が

死にたいという言葉に変身してしまう。

 

具体的には、お金だ。

お金が無いという問題を解決するには

お金を手に入れるしかない。

ここで、才能という要素が出てくる。

運は最強の才能である。

人生最初の運試しは、親ガチャだ。

親ガチャで当たりを引いた人は、それだけで幸福な人生確定である。

お金の問題は、親の援助で一発解決する。

親は人生を左右する、最重要事項だ。

 

俺が考えたいのは、親ガチャでハズレを引いた人についてである。

まず言いたい。

俺に言えることは何も無い。

ということを。

言葉には限界がある。

「親ガチャがハズレでかわいそう」って俺が言っても

ひとつも意味が無い。

むなしいだけだ。

 

だったら、俺にできることはなんだろう。

俺にできることは、時間を使うことだ。

俺が大切だと思う人に、時間を使うことだ。

自分のせいではない

自己責任では決してないことのせいで

欠けてしまったその人の時間。

その時間を1秒でも長く満たすことだ。

 

前、誰でも自由に選べるものがあると書いた。

今を生きることだ。

今を生きるとは、今を楽しむことだ。

本当に、くそみたいな言葉だけど。

今を楽しむことだ。

過去や未来にとらわれていい。

解決できない問題があっていい。

死にたくていい。

何もできなくていい。

だめでいい。

俺が一緒にいて楽しいと感じる人に

今、楽しいと感じて欲しい。

共感も、肯定も、優しさも、励ましの言葉も

1秒で腐っていくから。

言葉が腐ったあと、俺は俺の時間を使う。